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南陽工ナイン 炎のストッパー魂を伝承

2011年10月01日

南陽工ナイン 炎のストッパー魂を伝承

 小高い丘を登ると、球場が見えてくる。眼下に望むコンビナートの熱気を忘れてしまうほど閑静なところで、快挙が達成された。1977年(昭和52年)7月21日。夏の高校野球山口大会1回戦、南陽工の2年生エース津田恒美(のち、恒実に改名)が、熊毛北戦で一人の走者も出さない完全試合を成し遂げた。最後の打者を一邪飛に打ち取った津田は淡々とした顔で整列に向かう。「新聞の一面だ」と仲間がはやし立てても、「うん」と小さくうなずくだけだった。「神経質な子で、大事な試合になると、睡眠不足がたたって四球で崩れていた」と当時監督だった坂本昌穂(65)は言う。試合の前日、わざと球数を多く投げさせて疲れさせた。狙い通り、津田は「よく眠れた」とすっきりした表情でマウンドに上がった。
 力みが抜け、直球は勢いが違った。「低くボールだと思った球がぐんぐん伸びて、審判の手が上がっていた」と坂本。内野ゴロ7、内野フライ3、外野フライ6、三振11。わずか97球で成立。翌日、坂本が写真入りの新聞を手渡すと、津田は初めてにっこり笑った。
 「炎のストッパー」として活躍した広島時代、強気な投球がファンを魅了した。しかし、高校のチームメートは「気が弱く、心やさしい男だった」と口をそろえる。死球で顔をゆがめる打者に胸を痛め、試合後に必ず謝りに行った。内角攻めが苦手だったエースに思い切って投げさせようと、野手が練習でホームベースに覆いかぶさるように打席に立ち、あざをつくった。大学生との練習試合では、坂本が「津田に自信をつけさせたいので、直球を空振りしてほしい」と頼み込んだこともあった。
 だが、完全試合を境に、「自信にあふれ、投球も変わった」と2年先輩の有吉富男(51)は断言する。津田は「打たれても直球で勝負する」と宣言、翌78年春、母校を初の甲子園に導き、8強入りの原動力となった。社会人、プロでもこのスタイルを貫いた。
 プロ4年目の85年7月のヤクルト戦。この球場で凱旋登板した。ピンチでもないのに、ナインをマウンドに呼んだ。バックネット裏の家族を指さし、「見に来ているんですよ」と喜んでいた。
 今夏の山口大会。母校は4年ぶりに夏の甲子園出場を決めた。「津田2世」と評されるエース岩本輝は津田にあこがれて南陽工に進んだ。「今でも子どもたちにとって、大きな存在なんだろうね」と坂本はしみじみ語る。32歳でこの世を去って、17年。ヒーロー伝説は色あせない。(敬称略)

(2010年7月30日 読売新聞)
 
 
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