2012年3月15日 「さかもと手帳」 Vol.8 《教員退職の日》
2012年03月15日
別れの季節3月を迎えると、どうしても7年前定年退職で38年間勤務した教員生活に別れを告げた日のことを思い出します。
私にとって最後の勤務校になったのは南陽工高ですが、若いころ9年間勤めさせてもらい、最後にまた南工で教員生活の幕を閉じられるなんて幸運そのものでした。それだけに定年退職の日は辛いだろうなと覚悟はしていたのですが、後1ヶ月、後1週間、その日が間近に迫ってきてもなんら特別な感慨は湧きませんでした。忙しくて日々の仕事をこなすのが精一杯なのです。そしてついに当日がやってきたのですが、相変わらずあわただしい時間が過ぎてゆき、あっという間に定刻が近づいてきましたが、最後の10分か15分椅子に座って、いつも窓越しに見ていた瀬戸の海に浮かぶ黒髪島をぼんやり眺めました。春の霞がかかっていたように記憶しています。
いよいよ去る時が来て、校長室のドアを開けたら大勢の先生方が見送りのために待っていてくださったのです。予期せぬ光景に戸惑うやら照れくさいやら、でも先生方のお顔を見たとたん、グッとこみ上げるものがあり、図らずも少し涙を見せてしまいました。淋しいとか悲しいとかいうよりも、これで肩の荷が降ろせるというホッとした気持ちのほうが強かったように覚えています。
その日の夜はひどく疲れていたので、早々に床に就きました。ところが来し方行く末のことが次々と目に浮かび、いつまでたってもまんじりともできません。11時になっても目は冴え切っています。そんな時、私はふと「今日が定年の日だが、厳密に言えば今日の何時までが私の責任なのだろうか。そりゃあ12時に決まってる。それなら最後の瞬間は勤務地で過ごそう。」と思い立ち、また洋服に着替え車を飛ばして南工に向かいました。私はそんなに責任感の旺盛な性質でもないのですが、妙な心理が働くものです。学校に着いたのは12時15分前ぐらいだったので、足早に校舎を一周してまず無事を確かめました。まだ数分時間があるので、中庭の一隅にある津田恒美君の記念碑の前に腰を降ろし、思い出話をしました。私はこの場所が一番落ち着きます。12時になったのを確かめ、津田君の記念碑をさすりながら「また来るからのぉ」と別れを告げた後、正門の前に移動し、私は姿勢を正して「長い間お世話になりました。ありがとうございました!」と大きい声で挨拶をしました。これはひとり南陽工高だけへの別れというものではなく、今までお世話になった県内あちこちの学校の多くの教え子たち・面倒をかけた同僚の先生方・かわいがってくださった地域の人々、全ての方々への心からの感謝の気持ちを込めた挨拶でした。
「なんと未練たらしいことをする男よ」とお思いかもわかりませんが、これが私のけじめのつけ方だったのです。その後、家に帰りぐっすり安眠できたのはいうまでもありません。
私にとって最後の勤務校になったのは南陽工高ですが、若いころ9年間勤めさせてもらい、最後にまた南工で教員生活の幕を閉じられるなんて幸運そのものでした。それだけに定年退職の日は辛いだろうなと覚悟はしていたのですが、後1ヶ月、後1週間、その日が間近に迫ってきてもなんら特別な感慨は湧きませんでした。忙しくて日々の仕事をこなすのが精一杯なのです。そしてついに当日がやってきたのですが、相変わらずあわただしい時間が過ぎてゆき、あっという間に定刻が近づいてきましたが、最後の10分か15分椅子に座って、いつも窓越しに見ていた瀬戸の海に浮かぶ黒髪島をぼんやり眺めました。春の霞がかかっていたように記憶しています。
いよいよ去る時が来て、校長室のドアを開けたら大勢の先生方が見送りのために待っていてくださったのです。予期せぬ光景に戸惑うやら照れくさいやら、でも先生方のお顔を見たとたん、グッとこみ上げるものがあり、図らずも少し涙を見せてしまいました。淋しいとか悲しいとかいうよりも、これで肩の荷が降ろせるというホッとした気持ちのほうが強かったように覚えています。
その日の夜はひどく疲れていたので、早々に床に就きました。ところが来し方行く末のことが次々と目に浮かび、いつまでたってもまんじりともできません。11時になっても目は冴え切っています。そんな時、私はふと「今日が定年の日だが、厳密に言えば今日の何時までが私の責任なのだろうか。そりゃあ12時に決まってる。それなら最後の瞬間は勤務地で過ごそう。」と思い立ち、また洋服に着替え車を飛ばして南工に向かいました。私はそんなに責任感の旺盛な性質でもないのですが、妙な心理が働くものです。学校に着いたのは12時15分前ぐらいだったので、足早に校舎を一周してまず無事を確かめました。まだ数分時間があるので、中庭の一隅にある津田恒美君の記念碑の前に腰を降ろし、思い出話をしました。私はこの場所が一番落ち着きます。12時になったのを確かめ、津田君の記念碑をさすりながら「また来るからのぉ」と別れを告げた後、正門の前に移動し、私は姿勢を正して「長い間お世話になりました。ありがとうございました!」と大きい声で挨拶をしました。これはひとり南陽工高だけへの別れというものではなく、今までお世話になった県内あちこちの学校の多くの教え子たち・面倒をかけた同僚の先生方・かわいがってくださった地域の人々、全ての方々への心からの感謝の気持ちを込めた挨拶でした。
「なんと未練たらしいことをする男よ」とお思いかもわかりませんが、これが私のけじめのつけ方だったのです。その後、家に帰りぐっすり安眠できたのはいうまでもありません。
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