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さかもと手帳

はじめに

「さかもと手帳」にクリックしていただきありがとうございます。
今、株式会社三宅商事には新しい風が吹いています。本社を移転し、旧社屋や研修センターの整備、新しいロゴタイプを決定し、TV-CMも大きく変わりました。
そして弊社顧問の「さかもと昌穂」が新しい感覚で、会社へ、社員へ、そして地域社会へさわやかな風を吹かせます。その一つが「さかもと手帳」
教育畑から企業の先端に大きく転身した「さかもと昌穂」、経験したこと、聞いたこと、感じたことなど想いを綴ります。さあ、「さかもと手帳」を読んでみましょうか。
プロフィール

 

2013年12月15日 Vol.50 《終わりに》NEW

 私の家の裏に、高さ20メートル、幹の太さ1メートル以上のもちの木の大木があります。何百年も風雪に耐えたこの木は、まさに我が家の守り神であり、側を通るたびに木肌に触ってそのパワーをもらっています。私が子どもの頃、父親が、家の前庭に顔をのぞかせている植物らしきものを指さして、「裏のもちの木の根が、家の下を通ってここまで伸びてきているのだ」と、教えてくれたことが今もって記憶に残っています。よほどの驚きだったのでしょう。それまではこのもちの木を、太い幹・一年中生い茂る緑の枝葉・秋になってつける真っ赤な実、それら地上に見えるところだけを仰ぎ見ていたものが、父の教えにより、樹木には見えない部分、根の部分が地下深く四方八方に張り巡らされ、実に遠くまで伸びているのだということを知らされて、そのスケールの大さに驚嘆させられたのです。
 改めて我が家のもちの木を見てみると、地面と接している生え際のところは根がむき出しになっており、その最も太い部分は直径20センチほどもあります。目に見えない根の部分と、見えている幹・枝葉の部分の体積比はどれくらいなのでしょうか。この木に限っては地上部分の半分ぐらいは、いや同等ぐらいの分量がありそうな気がします。
 私もこのもちの木のように根を張って生きたい。そのために、少しでも自分の人間性を高める地道な努力をして、人から信頼される人間になりたいと思います。植物は根によって支えられているが、人間は人によって支えられて生きている。自立して生きるとは、決して一人で生きるということではなく、人から信頼され、人を信じて生きてゆくことだと思います。
 会社も生き物、大きな根を張って力強く伸びていかなければなりません。会社における根とは、県下各地で社員一人ひとりが培っているお客様との信頼関係の深まりです。先日、山口県庁14階で働く友人が訪れて来ました。県庁の清掃は三宅商事が入っているので、評判を聞いてみると、「とっても良くやってもらっている。若い女性だが、爽やかで感じが良い。元気をもらっている」とのことでした。「爽やか」。いい言葉ですねぇ。私は嬉しくて、ついつい晩御飯をご馳走する羽目になりました。
 
 前号でお知らせした通り「さかもと手帳」は、この号をもって終わりとさせていただきます。2年と1ヶ月の長きに渡ってお付き合い下さった方に、心からお礼を申し上げます。
 株式会社三宅商事にお世話になることになったのが、平成23年10月でした。着任早々、社長・副社長から、どんな内容でもいいから、会社のホームページに随想を書いてくれないかとの依頼を受けました。当然ながら、社員を励まし、元気付け、会社をさらに活気付ける一助になれば、との思いだったのでしょうが、いつの間にか会社の思惑とは大きくかけ離れ、面白くもなんとも無い私個人の回想記になってしまいました。波乱万丈の人生を送った人の回顧録なら読み応えもありますが、私ごときの思い出を綴っても何の意味も無いし、書いている本人が途中から飽いてしまっていたというのが正直なところです。それでも惰性であれ何であれ、なんとか50回までこぎ着けられたことについては、私は今、いたく満足しています。これもこのような企画を立てて下さった三宅商事の社長・副社長、毎回厳しく原稿の催促をして下さった社長室長、ホームページにアップする作業をしてもらった管理部長のおかげであり、心から感謝しております。ありがとうございました。
 
 平成25年が間もなく去ろうとしています。来年もどうか三宅商事をよろしくお願いいたします。最後に、皆々様のご健勝とご多幸をお祈りして終わりのご挨拶とさせていただきます。  

 

2013年12月1日 Vol.49 《妻へ》NEW

 息子二人は独立し、私は現在、妻と二人暮しです。結婚してから40数年が経ちますが、こんなにわがままで自分勝手な男を、良くぞ支え続けてくれたと妻には感謝しています。今回は恥ずかしながら妻のことを書かせてもらいます。
 私が22歳の折りに急に母が亡くなり、我が家は大ピンチに陥りました。姉はすでに名古屋のほうへ嫁いでいたし、妹は遠方の大学に在学中、私は教員に採用されて1年目、年老いた父親を誰が面倒を見るかという問題が起こったのです。当時、親の世話は、当然ながら子どもがするというのが絶対条件です。私に輪をかけてわがままな父親ですが、今まで私たちを育ててくれたのですから、母親ほどにはできないにしても、なんとか穏やかな気持ちで晩年を過ごさせたいというのが私たち姉弟の共通の願いでした。最初は跡取りたる私がすぐに結婚して家に帰るべきだとの意見が主流でしたが、私が単身で帰っても二人一緒に路頭に迷うことになると考えるのでしょう、「すぐ結婚して・・」という条件をつけますが、それは無理と言うものです。とうとう、3年後までに嫁さんを見つけるとの約束のもと、妹が面倒をみてくれることになりました。妹はせっかく希望する大学に入っていたのに、3年生になった4月より、家から通える大学へ編入することによって危機を乗り越えたのです。妹には大変な苦労をかけましたが、未だに恩返しができていません。
 3年後、私は約束どおり結婚し、自宅から通える学校への転勤が叶いました。母の死後、暗くなっていた我が家が、妻のおかげで急に明るさを取り戻しました。そして妻は、本物の優しさを我が家に注ぎ込んでくれたのです。父親は間もなく膝を悪くし、晩年は寝たきりの2年間を過ごしました。私はほとんど家に居ませんでしたが、考査期間中など早く帰れたときに、妻が父をかいがいしく世話をしてくれている姿を見かけることがありました。「さあ、お父さん、お風呂の時間ですよー」と声をかけ、小さな体で父親を背負い、お風呂につれて行き、背中を流してやるのです。        
 また「さあ、お父さん、今日は爪を切りますよー」とか言って爪を切ってやる。父が「すまんのー」と言いながら手を差し出している、あの幸せそうな父の表情は忘れられません。食が細くなってきたのを心配して、亡き母が作っていた父の好物の料理を一生懸命再現しようと努力もしていました。
 一つひとつの言葉・動作に無理をしている風はまるで無く、ごく自然にさりげなく接してくれるから父も負担に感じることなく、心地よい最晩年を過ごすことができました。私でも取り繕った優しい言葉をかけ、2・3回風呂に入れることはできますが、365日、毎日欠かさず、それを2年間はとても無理です。実の親子でもできそうに無いほどに献身的介護をしてくれた妻には感謝の言葉もありません。
 夫婦円満の秘訣、その一つは互いの親を大切にすることです。私は先日、義母の米寿のお祝いに駆けつけ、目いっぱい優しい言葉をかけてきました。義母が少しでも体が悪くなってきたら、我が家に引き取ることも決めております。妻の負担が増えるだけですって?まあ私の介護振りを見ていてください。とことん大事にして見せます。
 
 20年も前のことですが、家に帰ると大きな白い犬がいました。どうしたのか聞いてみると、イノシシの罠にかかったのであろう、ワイヤーが背中から脇にかけて巻きつき、赤身がむき出た状態で毎日我が家の前をヨボヨボ歩いていたのだそうです。妻は思わず助けようと近づくが、牙をむいて吠えかかる。そこで何日かかけて餌付けをして、餌を食べている隙に背後から近づき籠をかぶせ、傷の痛みと恐怖におびえて荒れ狂う犬をそのまま抱きかかえ、自分の軽自動車に乗せて病院に運び込みました。手術を終え、一晩入院をして翌日病院に迎えに行くと、クンクンと鼻を鳴らし、昨日までの表情はうそのように穏やかな目をして妻に体を擦り付けてきた。あまりに可愛いので飼うことにしたのだそうな。私にはとても真似のできない、勇気ある優しい行動です。
 たまに我が家に青ガエルが闖入することがありますが、決まって妻は「こんな所に居ったら干からびてしまうでしょう。さあ、おうちに帰りなさい」とか声をかけながら、大事そうに手に包んで水辺まで運んでやります。まさに漫画の世界ですが、こんな声を聞くたびに私の心は、ほんわかと温かくなります。
 妻の最大の趣味は家庭菜園、わずか3坪ぐらいの狭いものですが、大根・人参に始まり、苺・西瓜と1年中何かが育っています。徳地の田舎に住まいしていると、農作業ができるかどうかでその人の値打ちが決まるというようなところがあって、私が休日のたびに朝早くからユニフォームを着て野球の練習に行く姿は(部活動指導は大切な教育の一環、しかし近所の人には野球イコール遊びとしてしか捉えられていなかった)異様に映っていたようです。一方妻は真夏の炎天下もいとわず畑に出て、野菜に水をやったり、草を引いたり(野菜作りはあくまでも妻の趣味)すればするほど私の評判は下落の一途をたどりました。まあ、そんなことはどうでもいいことですが、確かに人間的に見ても、近所の評判は大きく的をはずしてはいないなと思います。
 
 私は「優しさ」こそが人間にとって最高の美徳だと思います。ここでいう「優しさ」とは、人の言いなりになるような弱さからの優しさではなく、きちんと自分を知り、自己の意見を持ったうえでの優しさ、いわば強さからの優しさでなければなりません。妻は確かに強くて優しい人だったなあと思います。                     
 このたびは照れくささを忍んで、妻のことを書きました。なぜこんなことになったかというと、この「さかもと手帳」次号で丁度50号、切りも良いので、次の回を以って最終回としたいと思います。終わるにあたり、書き残したことは無いかと考えた時、妻への感謝の気持ちを少しでも書いておこうと思ったのです。このようなことは、とうてい面と向かって言えるものではないので、ここに記しておけば、いつの日か読んでくれるかも判りません。
 長い間、ありがとう。これから何年一緒にいられるかわかりませんが、仲良くしましょう。
 

2013年11月15日 Vol.48 《大津島ふれあいスクール》NEW

 子どもを教育するにあたって、どんな人間に育てたいのか、常に10年先、20年先を見越して、ぶれの無い指導をすることが肝要であると同時に、今、目の前で苦しんでいる子を、いかにして一人でも多く救い上げることができるかということも重要になります。
 目の前で苦しんでいる子ども、その最たるものが不登校児童・生徒です。学校や家庭の人間関係とか、周囲の環境の変化に対応できなかったりして学校に行けない、行きたくても家からの一歩を踏み出せない、勉強をしなければと焦れば焦るほど、教室に入れない、そんな子どもが大勢いるのです。私が周南市教育委員会に入った時、162名の子どもが不登校で苦しんでいました。この数は全国平均に比べて決して多くはないのですが、現に今、辛い思いをしているのです。その子たちを一人でも二人でも救い上げたいとの強い思いから、大津島小・中学校で不登校の子どもを受け入れられないかの検討を始めました。
 大津島は徳山港から10キロの沖合いに浮かび、島民は400名弱の小さな島です。島の学校は小学校・中学校が同一校舎になっており、生徒数は合わせて数名(5人ぐらいだったか)しかいない極小規模校でした。ここでなら不登校の子どもの何人かは救えるかもしれない・・・期待と不安が入り混じる中で、島民の方々、学校の先生方や島の生徒たち受け入れ側の意向調査、通学や学習の支援員・スクールカウンセラー(週2回派遣)の人選、各学校への周知、予算獲得(人件費等約500万円・渡船料は全額、市が補助)、仮通学(5~10日間)の実施等々、着々と準備は進みました。学校教育課指導主事のT先生(現在は下関市立中学校教頭)の大変なご尽力のおかげで1年後にはスタートできる運びとなりました。
 初年度、指定校変更をして島に通うようになった子どもは、小学6年に1名、中学校に11名で、私たちの予想をはるかに上回る人数でした。しかし、全ての子どもが順調な学校生活をスタートできたわけではありません。ある日の朝、T指導主事が視察のため島に渡ろうと徳山港に赴くと、一人の男子生徒(中一だったか)が通学する船に乗ろうと何歩か歩を進めるが、また母が送ってきてくれた車に戻ってしまう。そんな動きを何度も何度も繰り返していたのだそうです。とうとう彼はその船には乗れませんでした。T指導主事は島での用務を終えて昼前の便で徳山港に帰ってきました。すると何と朝見た母と子がまだ駐車場にいて、車から出たり入ったりの行為を繰り返していたのだそうです。子どもにしてみれば、せっかく大津島でやり直そうと決意をしたのに、また弱い心に支配されそうになっている。その弱さを克服するための闘いを続けているのです。母は母で我が子の手を引っ張ってでも、背中を押してでも船に乗せてやりたい。でも無理をさせたら、逆効果になることは目に見えている。子どもの意志が固まるまで、優しく見守り続ける以外ないことを理解されているのです。私はこの親子がこの苦しみから逃れられる日が、一時も早く来ることを祈らずにはいられませんでした。       
 それでも、島の人々の温かい心遣いと先生方の熱意にほだされて、この12名の子どもたちが明るさを取り戻すのに、そう時間はかからなかったみたいです。ある市議会議員さんは議会の質問で「大津島ふれあいスクール」のことを取り上げられるにあたり、視察に行かれて、その時の様子を次のように語られました。「まず私が驚いたのは子どもたちの明るい笑顔でした。不登校で苦しんでいた面影は全く見えず、友達や支援員さん、先生と明るく会話する姿はどこにでもいる普通の子どもたちに見え、周囲の環境の変化が子どもたちに与える影響の大きさを知りました。また、この離島という、ある意味、俗世間と切り離された環境が、周囲の目やプレッシャーから子どもたちを解き放っているのだと思いました。」
 私も夏のある日、学校を訪れてみると、大津島の自然を生かした体験活動としてシーカヤックを漕いでいました。そこには底抜けに明るい子どもたちの笑い声が響き渡っていました。
 また、運動会では地域の人たちと一緒になって、地元に伝わる「平家踊り」を披露してくれました。
 あっという間に1年が過ぎ、「ふれあいスクール」としては初めての卒業式を迎えました。
小学校の卒業生は、不登校で転入した子ども一人だけで、その子が読んだ答辞の一節に次のような言葉がありました。「・・・地いきのみなさん、僕にとっての大津島は、みんながみんなやさしい島です。何かするときは、いつも地いきのみなさんの姿がありました。いつも助けていただき、見守ってくださいました。大津島はやさしい人であふれています。僕は大津島が大好きです。大津島へ来てよかったです。・・・」
 答辞が終わった時、生徒席の後方から急に拍手の音が聞こえてきました。式に参列されていたこの子のお父さんが、我が子の成長した姿を目の当たりにして、思わず拍手をされたのです。最後に卒業生の保護者が学校側に謝辞を述べる場面がありますが、そのお父さんは家で準備されたのであろう謝辞をしたためた紙を一旦ポケットから取り出されましたが、またそれをポケットに戻し、自分の今の思いを、生の声で語られました。「5年生までほとんど学校に行けなかった我が子が、立派な答辞を読んでくれるまでに成長した。信じられない。夢を見ているようだ。」という内容のことを、涙に咽びながら語られたのです。
 中学校の卒業式では、これまた不登校だった生徒が答辞を読み、その中で担任の先生に対して次のような感謝の言葉を述べています。「・・・2年生だった頃はなかなか学校に行けず、先生にはたくさんの心配と迷惑をかけてしまいました。3年生になってからは数学のやり残した単元を丁寧に教えて下さいました。一生懸命何かを頑張ることの大切さを教えてくださったのも、つらいことがあって悩んでいた時に、一番に気付き、心配して下さったのも先生でした。そんな先生のことを私は尊敬しています。・・・」さらに、今後の自分の生き方についてこのように続けています。「・・・高校に入れば、多くの異なる考え方を持った人に出会うと思います。そんな中でも、他の人に影響され過ぎずに“やっと見えてきた自分の進むべき道”を見失わないようにしていきたいです。そして、他の人より心の弱さを知っている分、周りの人たちの弱さにも気付き、支えてあげられるような大人になっていきたいです。・・・」ご苦労された担任の先生も感無量だったろうと思います。
 周南市教育委員会時代の懐かしい思い出です。先日、大津島ふれあいスクール事業の立ち上げにご苦労をかけたT先生と下関でお会いすることがありましたが、おのずと話題は不登校対策のことになります。学校と家庭と地域が力を合わせることにより、周南市内に162名いた不登校児童・生徒が140名、120名と減っていき、最後は98名とついに二桁にまで減少した時はT先生と手を取り合って喜んだものです。ここで私の教育長任期は終わりましたが、現在も不登校問題には精一杯の取組みをしていただいております。
 もちろん、大津島に行けば全てが解決するわけではありません。しかし、また挫折してしまうことがあったとしても、「学校へ行きたい」という強い決意が自分を動かし、自分の意志で通学を始めた事実は、再び挑戦する時の大きな自信と力になるものと信じます。
 人生には苦難がつきまといます。挫折感を味わうこともありますが、そのつど人間は鍛えられ成長していけるのです。
 
 「願はくば我に七難八苦を与へ給へ」 山中鹿之助(戦国武将)


大津島幼稚園・小学校・中学校(周南市HPより)

 

2013年11月1日 Vol.47 《なぜ教育長が私なの?》NEW

 私が教員を定年退職して2年目の春、間もなく行われる周南市長選挙に立候補を表明されていた島津氏が、急に私のところに来られ、当選したら周南市の教育長をお願いしたいとのことでした。周南は企業城下町、その企業のほとんどが対立候補側の応援をしているということも新聞等で知っておりましたし、どうせ泡沫候補だろうぐらいに認識していたものですから、私は適当に「またその時に考えます。こんなところで時間をつぶすより、一人でも多くの市民の方にお会いになったほうがいいのでは・・・」などと横着な対応をしたのを覚えています。もちろん初対面だったのですが、その時の島津氏の印象は、強いオーラを発する方で、人をいつの間にか引き込んでしまう、とても魅力的な人でした。
 投票日前日の夜、島津氏本人から「この選挙、勝ったからね。教育長の件、頼むよ」との電話がありました。この時ばかりは、まだ選挙も終わってないのになぜそんなことが言えるのかと、選挙に不案内な私は不信感すら抱きましたが、情勢分析と手応えで、結果はある程度分かるものらしいですね。見事島津氏は当選されたのです。          
 さあ大変、私は余生を地元への恩返しに当てようと決めており、徳地中央公民館の館長の仕事にやりがいを感じていたのと、野球指導に明け暮れた私には教育長などとても無理だと思い、お断りもしましたが、あいまいな返事をしていたのがあだとなりました。それにしても、「なぜ教育長が私なのか?」尋ねてみると、島津氏の叔父に当たる方が、山口県教育界で重きをなし、1980年に創立された新南陽高校の初代校長も勤められた安本先生であり、その強い薦めがあったそうなのです。安本校長はご高齢でありながら甥の選挙応援に心血を注がれ、当選の報を聞かれて間もなく急逝されました。ですから余計に「坂本を教育長に・・・」という言葉が遺言のように思え、ゆずれないところとなったのでしょう。                                      
 安本校長先生とのご縁は確かに一度ありました。もう30年近く前のことですが、新南陽高が創立してすぐ野球部ができ、私が監督をしていた佐波高校と練習試合をする機会がありました。そのとき、バックネット裏に、麦藁帽子をかぶったやけに元気のいい方がおられ、必死に新南高の応援をしています。試合前半は「新南陽、ガンバレヨー! マケルナヨー!」と、大声で叫ばれるぐらいだから良かったのですが、後半になり、大差がついて我が佐波高が優勢になってきました。すると、そのおじさんは「ボールをぶっつけちゃれー! 頭を狙って投げちゃれー!」などと、聞くに堪えないような言葉を発しだしました。あまりに汚い野次に私も感情的になりまして、試合が終わるや否やその人の元に駆けつけ「何という応援をするのですか! 頭を狙えとはなんですか!」とけんか腰で息巻いていました。すると、おじさん、さっきまでの姿はうそのように、穏やかな表情を浮かべられて「大変ご無礼をしました。うちの子供らーが気持ちで負けちょると感じたもんですから・・・。何を言ったかよう覚えちょりませんが、もっと闘志を前面に出せと励ましたつもりであります。・・・あのー・・・実は・・・私、この学校の校長の安本と申します。心からお詫びを申し上げます。」「えっ! この人があの有名な安本校長!?」
 島津前市長と安本校長、血縁があるだけに激高型のところは良く似ておられたみたいです。でも私はこのタイプの人、嫌いではありません。
 周南市教育長時代、いろいろな試練に出会いました。そんな時、嘆き悲しんだり、不平不満をいくら言っても解決はしません。試練は天が与えてくれるものだと真正面から受け止め、明るく前向きに、全力を傾注すれば、おのずと道は開けてくるということを教えてもらったのもこの4年間でした。

 「憂きことの 尚この上に 積もれかし 限りある身の 力試さん」
                          熊沢蕃山(江戸時代儒学者)
 

2013年10月15日 Vol.46 《25年ぶりに南陽工業高校へ》

  平成15年4月、私が25歳から34歳までの9年間勤務した南陽工高に、実に25年ぶりに赴任することになりました。校舎も実習棟もグランドも昔のまま、変わっていたのは前庭にあるワシントンヤシの木が、25年前は2・3メートルだったのに、20メートル以上もの高さに成長していたことぐらいです。
 懐かしさに浸ってばかりもいられませんでした。国語科の教員に欠員が生じ、非常勤講師を探すことになりました。私は常々感性教育の重要性を感じ、特に機械と向き合ったり、化学薬品の調合をしたりすることの多い工業高校の生徒にこそ感性の豊かさが求められると思い、何としてもお引き受けいただきたかったのが森元輝彦先生なのです。森元先生は、私が25歳で南陽工業に赴任した時、同じ国語の教員として、机を並べて仕事をさせてもらい、いろいろな面でご指導をいただいた大先輩であり、歌人としても全国的に有名で、全国規模の歌会で何度も特選に選ばれ、昭和50年代終わりには宮中歌会始めにも入選なさった方なのです。早速、講師就任をお願いに伺うと、高齢を理由に固辞されましたが、必死にくい下がって頼み込み、ついに重い腰を上げていただくことに成功しました。     
 先生は授業の合い間の短歌指導を通して、見事に生徒たちの感性を掘り起こしてくださいました。「プレ国民文化祭・やまぐち2006短歌大会」では児童・生徒の部で1万首近い応募があり、最終選考の結果、90首の優秀作が選ばれたのですが、なんとその中に南陽工業の生徒の作品が、第二席にあたる県議会議長賞を筆頭に7首も含まれていたのです。
 引き続いて行われた「第21回国民文化祭・短歌大祭」では約4万首の応募のなか、南工生の歌が特選に1首、秀逸に3首、入選が7首ありました。この成績はまさに快挙であります。これもひとえに森元先生のご指導の賜物と深く感謝いたしておるところです。
 受賞作の一つをご紹介しましょう。これは、山口県歌人協会会長賞をもらった作品です。
  『夏祭り 泣く弟を しかりつけ ポケットの小銭 指で数える』
 いいですねえ。高校1年男子生徒が作ったものですが、歳の離れている弟が露店に並ぶおもちゃを買ってくれと泣きながらねだるのでしょう、父親の目線で叱りつけながらも可愛い弟の意に添ってやりたいとポケットの中のお金が足りるかどうか指で勘定しているのです。なんともほほえましく、温かく、兄弟愛がにじみ出ていて、私の大好きな歌です。
 森元先生は、「感動の一瞬を切り取りなさい。歌が説明や報告にならないよう注意しなさい」と盛んにおっしゃっていましたが、その教えを忠実に守ったのが次の歌でしょう。これは国民文化祭で特選になった作品です。
  『ビュレットの操作方法間違えて標線過ぎた ため息が出る』
 化学の実験で緊張の一瞬をむかえ、そして失敗に終わった、その落胆ぶりが素直に表現されています。
 生徒に短歌作りを強いるばかりでなく、教員も俳句に挑戦しようではないかということになりました。これまた森元先生のご指導の下、句会を月1回開催することにしたところ、毎回20数名の参加者があり、初めは稚拙な作品も多かったと思いますが、一つひとつの作を先生は実に丁寧に批評して下さいます。「この言葉とこの言葉を入れ替えたらどうだろう。ここにこんな言葉を入れたらどうなるか」とかおっしゃりながら瞬く間に名句に仕上げてくださいます。最後には必ず誉め言葉を添えていただけるのですからみんな俳句の面白さに取り付かれてしまいました。
 森元先生のおかげで、どちらかというと味気ない工業高校が、あっという間に心豊かで穏やかな空間に変わったような気がしました。こんな雰囲気になれば、当然ながらいじめや暴力とは無縁の世界になります。
 
 短歌・俳句といった日本の伝統文化をもっと身近なものとしてとらえ、例えば旅行先などで美しい光景に触れ、カメラ代わりに5・7・5の短い言葉でその景色を写し取ることができたら旅の楽しさも倍増するでしょうね。
 

2004年度卒業アルバム表紙より
 

2013年10月1日 Vol.45 《鹿野高校》

  鹿野は山口県中部の山間部に位置し、県内最大の河川である錦川の上流端にあたり、豊かな自然に恵まれた地域です。古くから東西南北に街道が交差する要衝で、宿場町的な性格も持って栄えていたのでしょう。江戸から明治期の建物も残っており、由緒ある旧家が何軒もありました。そんな土地柄ですから、住民の方々の人柄も優しく穏やかなのですが、それでいて凛とした気構えを持っておられたように感じました。鹿野の地を心から愛し、故郷を誇りに思う気持ちが、このような気質を育んだのでしょう。とても一体感のある町でした。
 そのような町に在る、唯一の高校、鹿野高校の教頭として赴任したのは平成12年でした。地域の方々の所を挨拶回りしても、鹿野高校に対する思い入れは大変強いものがあり、責任の重さを痛感させられました。着任して職員室で過ごすようになってまず感じたのは、先生方は至極真面目で、教育熱心だが、やや覇気がない、なんとか先生方にもっともっと元気を出してもらいたいということでした。なぜこのような雰囲気になるのか、様子を見ていると、時の校長先生の学校運営の厳しさに起因しているようでした。校長先生は教育者としてとても立派な方であり、最後には県下屈指の大規模進学校の校長を務め上げられたほどの力量の持ち主であり、個人的に話せばとても魅力的な方でした。しかしながら、中山間地にある小規模高であるが故の問題も抱え、全てに物足りなさを感じておられたのでしょう。職員会議の席上でも、先生方をその場で叱り飛ばされます。特に気の弱い先生は、強く叱責されるとますます萎縮してしまいます。
 ところで、野球の投手と捕手を総称してバッテリーといいますが、なぜこのように言うのかご存知ですか?バッテリーとはそもそも蓄電池のことで、プラス極とマイナス極が備わっています。投手は「打てるものなら打ってみろ。」と強気に攻めるタイプ、いわゆるプラス思考の人でなければ務まらず、捕手は「ここは狙われているかもしれない、初めにこの球を投げて様子を見よう。」とか、用心に用心を重ねてリードするマイナス思考の人がふさわしい、この好対照の二人があいまって初めて結果が出せることから、投手と捕手のことをバッテリーというのだそうです。         
 校長と教頭、社長と副社長もしかりです。両者が同じタイプでは強い組織はできません。二人ともプラス思考では暴走してしまいかねないし、マイナス思考同士では覇気のない組織になってしまいます。
 教頭職の最も大切な任務は、校長を補佐することです。教頭としての私の急務は、活気に満ちた鹿野高教員集団作りと、校長の懐柔策を考えることでした。前者については、バドミントン・卓球・テニス・ソフトボール等のスポーツをしたり、地域のイベントに積極的に参加したりして気運を盛り上げていきました。後者については、校長を教員集団の輪の中に引き込むことに腐心しました。初めは苦戦を強いられましたが、次第に校長との間にあった壁も取り払われていきました。文化祭での教員劇で、端役ですが村びとの役での出演をお願いに行くと、あの堅物校長が乗り気になられて、台本にはない立小便のポーズまでされたのには、驚くと同時に、一体感醸成に手ごたえを感じたものでした。                    
 鹿野は雪の多いところですが、昔ほどには積もりません。ところがある年の冬、どか雪が降り、一面30センチ以上の雪に覆われました。バスも不通になり、徳山方面から通学する約半数の生徒が登校できず、地元の生徒からも登校不能の連絡が相次ぎ、授業は成立しなくなりました。校長先生は朝の職員朝礼で、登校している生徒には自習をさせるようにとの指示を出されましたが、職員室では、折角の大雪、雪像造り大会をしようではないかという話が持ち上がりました。どうせ校長には反対されるだろうと思いながらも、私は意を決して校長室に行き、思いを告げました。するとなんと校長はニヤリと笑い、「やるか」と言って立ち上がられたのです。生徒も教員も大はしゃぎ、アンパンマン(あまり似てなかった)・横たわる女体像(腰の曲線が見事だった)・岩国の錦帯橋(とても精巧な作りで、橋の下を流れる錦川には鵜が泳いでいた)・・・・様々な雪像ができました。校長先生も結構楽しんでおられたように見受けました。
 翌日から日差しが戻りましたが、鹿野の寒気が雪像を溶かさないように一生懸命守ってくれて、何日も原型をとどめました。それでも1週間を過ぎると次第に雪像は小さくなってゆき、形は崩れていってしまう、そんな無常なさまを見て、生徒たちもいろいろなことを思ったはずです。
 つい2・3年前、どこかの新聞の山口版に『鹿野高校で伝統の雪像作り大会』という記事が写真入で出ました。あの時、思いつきでやった「雪像造り」が学校行事として守り続けられているのだと知って、とても嬉しい思いをしたものです。


現在は、校名が「山口県立徳山高等学校鹿野校」になっています。
 

2013年9月15日 Vol.44 《Mちゃん・Y君元気ですか》

 わずか2年間の養護学校勤務でしたが、私にとっては感動の連続でした。
 あれは着任1年目の秋、文化祭当日でした。この日は、保護者も大勢駆けつけてくださいますが、廊下を歩いていたら、Mちゃんとそのお母さんに出会いました。Mちゃんは構音障害があり、体は湾曲し、両手が麻痺して不自由だが、知的遅れは無く、いつもニコニコしており、笑顔のとても可愛い少女でした。私はお母さんに自己紹介をした後、「Mちゃんはいつも朗らかで、周囲の雰囲気を明るくしてくれます。いい子ですねえ。」と、学校での様子を伝えると、お母さんは次のような内容のことをおっしゃいました。「この子は幼い頃、一切笑顔をみせなかった。小学校5年生だったある日、Mは泣きじゃくりながら家に帰り、『何で私だけがこうなの!』と叫びつつ、私をぶち続けました。私はどうすることもできず、両の腕で彼女を抱きしめながら、『Mごめんね。でも私はMのことを一番愛してるよ。』と言い続けた。それでも私の腕の中でもがいていたが、しばらくたってから急に体の力を抜き、私を見上げてニッコリと微笑んだ。それ以来なのですよ。こんな可愛い顔を見せてくれるようになったのは。」と言いながら、彼女の頬をつつかれるのです。
 Mちゃんは生来、陽気な性格なのであろうと思っていた私は、この事実を知らされ、思わず涙ぐんでしまいました。彼女はお母さんの胸に抱かれながら、母を苦しめないために、これからは決して辛い顔はしないと決意したのでしょう。今も泣き叫びたい時はあると思いますが、それを押し殺して、笑顔でみんなを明るい気持ちにさせてくれているはずです。でも、たまには泣いてもいいと思うよ・・・・。
 
 私が養護学校教員にあるまじき大失敗をしたのも、防府養護時代です。Y君という生徒がいましたが、下半身麻痺のうえ全盲という重い障害がありました。それでも彼は、残された機能をフルに使って、実に前向きに生きていました。特に聴力は鋭い感覚を持っており、エレクトーンの演奏などには抜群の才能を見せていました。内向的な性格で、初めはなかなか打ち解けてくれませんでしたが、半年もするといろいろな話ができるようになりました。朝、出会って挨拶の言葉を投げかけると、声だけですぐ私を認識してくれて、「サカモト シュジセンセイ オハヨー」と返してくれます。心の絆はいよいよ強まったと自信をつけた私は、今日はY君をからかってやろうと思って、朝の挨拶の時、女性の声色を使って、高い声で「Yクン オハヨー」と言ってしまいました。するとY君は急にうつむき、眉間にしわを寄せて考え込みました。私は「しまったー」と思いました。Y君が不機嫌そうになるのは当たり前のことです。Y君は自力で歩行できない上に、眼も全く見えない、暗闇の世界で、研ぎ澄ました聴力だけを頼りに生きているのです。それなのに私は軽い気持ちからとはいえ、彼の耳の感覚をズタズタにしてしまったのです。
 「Y君、ごめん、ごめん。坂本主事先生だよ!」とすぐ言い換えたが、時すでに遅し、彼は下をうつむいたまま顔を上げてはくれません。それから何度も何度も謝罪の言葉を言い続け、修復を図ろうとしましたが、最後まで許してはくれませんでした。それから間もなくして私は転勤することになり、防府養護学校勤務最後の日に、彼の元に別れの挨拶をしに行ったのですが、ニコッと微笑んではくれたものの、「さようなら」の言葉は発してくれませんでした。とても悔いが残る思い出です。
 
 私は養護学校に2年間勤め、生徒がたくさんのことを教えてくれました。濁りのない瞳で前を向き、ひたむきに障害に立ち向かい、みんな仲良く力強く生き続ける障害者と、人をだましたり傷つけたり、いつも自分中心にものを考える人の多い健常者と言われる人と、いったいどっちが本当の障害者なのだろうと思うこともありました。また、障害者は、自分の境遇に同情して欲しいとは思っていません。同情の裏側には「可哀そうに・・・でも自分はそうでなくて良かった」という思いが潜んでいることを知っているからです。彼らは、障害を人間の個性の一つとして認め、普通に接してほしいと願っています。それでも障害者は社会的弱者です。段差があれば車椅子では通れません。私たちは障害者が安心して暮らせる、真に豊かな社会を創るために、それぞれの道で努力していこうではありませんか。
 

2013年9月1日 Vol.43 《防府養護学校》

  平成11年4月、私にとって第二の教員人生が始まりました。30年にわたる高校野球の指導に終止符を打ち、山口県立防府養護学校高等部主事という立場で転勤をすることになったのです。養護学校(現在は特別支援学校)には、小学部・中学部・高等部の三部が設置され、障害のある6才から18才までの子どもたち百数十人が学び、百名以上の教職員がその指導に当たるという大規模な学校です。
 初めて全校生徒に会えたのは4月8日の入学式であったか、緊張して体育館で待っていると、車椅子に乗って入場してくる者、松葉杖を使って必死に歩いている子ども、ストレッチャーに横たわったまま経管栄養のチューブをつけた生徒・・・様々な子どもたちが式場に入ってきました。
 さて、式は始まりましたが、入学式というのだからシーンと静まり返った中で執り行われるのであろうと思っていたら、式場のあちこちから叫び声のような、悲鳴のような声が聞こえてくるのです。後で知ったのですが、重度の障害者は大きい声を発することがよくあります。しかし、私にはその声が、式の厳粛さを壊すようには聞こえず、「私はここで生きてるよー。」「僕もここで頑張ってるよー。」と叫んでいるようであり、私はその声に圧倒され続け、ますます厳かな雰囲気が高まっていきました。この子達の眼は輝いている。懸命に生きようとするひたむきさが感じられる。私は障害者教育を専門に学んではいないが、これから一生懸命取り組んで、少しでも彼らのために役に立ちたい・・・・などと思いを馳せていたら、急に「坂本君!」という声が聞こえました。一瞬ドキッとしましたが、新入生に対して激励の言葉を述べるために呼ばれた生徒会長の名前が、私と同じ「坂本」だったのです。ちなみに彼は卒業後、大分県別府市にある障害者施設に入所し、元気に過ごしております。いまだに交流は続き、ほぼ1年に1回は会っていますが、2011年山口国体の直後に行われた、第11回全国障害者スポーツ大会では大分県代表として車椅子短距離走に出場したので応援することができました。この10月にも同窓会出席のため帰ってきます。それにしても、私にとってこれほど緊張感のある入学式は初めてでした。
 滞りなく入学式は終わり、式場出口のところで、女の子が横たわるストレッチャーを押して退場されようとしているお母さんに出会いました。先ほどの入学式で、校歌斉唱の折には校歌のリズムに合わせて、お母さんは優しくストレッチャーを揺すっておられました。この子は幼稚園の時、交通事故に遭い、一命は取り留めたものの、ひどい損傷を受けて、口も利けない、目もほとんど見えない、自力で食べることもできないという、いわば植物人間と化してしまったのです。私は思わず、お母さんに「大変ですね。どうかこの子のために頑張ってください」と言っていました。するとお母さんは明るい笑顔を浮かべて「大変なものですか。この子は1年に3回ぐらいニコッと笑ってくれる。今度はいつ笑ってくれるか、それだけを楽しみにして生きてるんですよ」とおっしゃいました。もちろん、面白いから、楽しいから笑うのではなく、生理現象として微笑むのでしょうが、それを待つのが生き甲斐だとおっしゃるのにはひどく心を揺さぶられました。
 このような最重度の生徒のケースは、教員を家庭に派遣するという形で授業をするわけですが、唯一わずかに残された器官である聴力に訴えるため、先生方が様々な工夫を凝らしておられるのにも感心させられました。学校では授業以外にいろいろな行事があります。運動会・文化祭・遠足・集団宿泊・・・その都度、ご両親はストレッチャーごと運べる大型ワゴン車に彼女を乗せて駆けつけてくださいます。それを認めた生徒たちは、大勢が駆け寄り、反応は示してくれないのですが「Sちゃん、Sちゃん」と可愛くて仕方がないという風に呼びかけ続けます。お互い、障害のあるもの同志で、苦しみを共有し、理解しあえるから、こんな光景が生まれるのでしょう。優しい人の輪です。
 現在も年賀状のやり取りを続けていますが、毎年、Sちゃん本人が書いた風に、言葉が書き添えてあります。「私も30歳になりました。頑張ってます」・・・・・。  
 
 
 

2013年8月15日 Vol.42 《松村邦洋さんとの出会い》

 ものまねタレントの松村邦洋さんとは20年近い付き合いをさせてもらっています。出会いは光高校の野球部監督をしていた時のことです。ある日、光高の野球場で練習試合をしていたらレフトの金網の向こうからジーッと試合を見つめている人がいます。普通、試合を見にこられた方はバックネット裏のスタンドで観戦されるのに誰だろう。それにしてもよく太った人だなあ。あのような体型の人は友人にもいないし、教え子の中にもいない。たぶんライバル校の関係者が敵情偵察に来ているのだろうぐらいに思っていました。試合が終わった後、気になるので近づいてみるとテレビでおなじみの松村さんではありませんか。「あの弱小チームだった光高が、なぜ急速に力をつけてきたのか関心があるので、里帰りのついでにやって来た」とのことでした。彼は光市に近い山口県田布施町の出身です。
 せっかくだから選手たちに一言励ましの言葉をかけてもらえないかとお願いすると、快く応じてくれて例の掛布選手のものまねで延々としゃべってくれました。生徒たちは腹を抱えての爆笑の連続、思わぬご褒美に恵まれました。
 以来20年、我が家に何度も泊まりがけで遊びに来てくれたり、私の職場を陣中見舞いに訪れてくれたり、電話はしょっちゅうかかってきます。「カントク! マツムラデス!」(私は野球の監督をやめて15年にもなるのに、いまだに彼は私のことをカントクと呼びます)で始まる電話は、そのつど30分ぐらい続きますが、話題はプロ野球・高校野球・日本の歴史・山口県の歴史・・・様々な分野に及びますが、ものまねを交えながらのトークを独り占めできるわけですから贅沢な話です。とにかく博学、抜群の記憶力には感心させられます。そして突然、「ジャア カントク スミマセンデシタ」の彼の言葉で電話は終局を迎えますが、最後は私の「オウエンシチョルカラ ガンバテェーネ」と山口弁での一言で電話を切ることになります。それにしてもなぜ、私のような何の面白みもない者のところへ頻繁に電話をしてくるのか、たぶん、生き馬の目を抜くともいわれる東京での生活、その上、芸能界に身を置いていれば、神経をすり減らし、疲れ果ててしまう。そんな時、私の間延びした山口弁を聞くとホッとできるのかなと思います。
 『ふるさとの 訛りなつかし停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく』 石川啄木
  
 平成10年だったか、私は防府養護学校の生徒を引率して東京方面へ修学旅行に行きました。初日の夜、どうせ捉まらないだろうと思いつつ松村さんに電話を入れてみると、偶然、翌朝なら空いているとのことで、ぜひ生徒に会いに行くと言ってくれたのです。約束したとおり、早朝7時の朝食時に合わせて、寺門ジモンさんと二人で本郷のホテルを訪れてくれました。もちろん生徒には内緒にしていて、急にドアを開けて二人に登場してもらったものですから、子どもたちは一瞬キョトンとした後、間もなく蜂の巣をつついたような騒ぎになりました。そんな中、ものまねをしながら全員と握手を交わし、みんなにいきわたる様サインもしてくれました。記念写真も撮りました。1時間足らずの交流でしたが、生徒たちにとって、ディズニーランド以上の喜びだったようです。障害のある子どもたちは様々な苦難に出会いながらも、青春時代の楽しかった思い出を胸に、力強く生き続けてくれています。お疲れであったろうにあんなに朝早くから、1分も時間を違えず、良くぞ訪れてもらいました。心から感謝しています。
 折り目正しく、謙虚で、全てを善意に解釈し、決して人の悪口を言わない、そんな松村さんが私は大好きです。どんな世界で生きても、最も大切なのは人柄の良さですね。誰からも愛されるマッチヤンであり続けて欲しいものです。

二人で訪れた津田投手の記念碑を囲んで

 

 

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